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入場料 500円

 

 

 

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   © 2013 Kazuma Obara, all rights reserved.

この一年、被災地で写真を撮るということは「分からなさ」と向き合うことだった。何の写真を撮るべきなのか。どうやって伝えるべきなのか。自分が伝えようとしていることは何かの役に立っているのか。伝えることで風化に抗おうとしながらも、自分自身の生活の中に東日本大震災が埋没して行くことを感じていた。関西で生活を続けながら、それに抗う術を僕は知らなかった。そんな状況のまま、被災地に通う日々が続いた。

津波被災地で瓦礫撤去が落ち着いてくると、行政や自治体の施策、被災地でのイベントがニュースの中心的な話題になっていった。施策を写真で表現することは不可能に思えたし、イベントを撮影しても、新聞やテレビに比べ、圧倒的に情報発信力に劣る私が、それを伝えることに意味を見いだせなかった。

自衛隊やボランティアによる力作業から精神的ケアが主要な役割を担うようになってくると、関西から稀に顔を出す自分が中途半端な気持ちのまま、それらの心の問題に写真で踏み込むだけの度胸がなかった。瓦礫が無くなり草原のようになってしまった町並み。変化のないその風景を人に見続けてもらうだけの技術を自分が持っているのか自信が無かった。

福島第一原発と放射能汚染地域では、異常事態が常態化することで、もはや異常なことがあたりまえになってきてしまっていた。異常だと口にすることだけでは、もはやカンフル剤として聴衆から興味を引くだけの効力はないように思われた。自分が撮る写真の役割と方法を見いだせないまま、ひとつひとつに言い訳を作り出しては、写真を撮らないことに様々な理由をつけ始めた。僕は表現することを諦めていた。そして、震災直後は、あんなに近かったはずの被災地の風景が、いつの間にか自分と距離を置き始めた。もはや僕は被災地に住む人々と同じ言葉で話すことが出来なくなっていた。復興や収束という言葉の意味が分からなくなっていた。

そんな状況のまま震災から1年半の2012年9月を迎えた。何を撮るべきかは分からなかったが、このままではいけないことだけは分かっていた。もう一度、震災直後に出会った人たちを訪ねて話を聞こうと思った。僕はデジタルカメラではなく中古で購入したハッセルブラッドにフィルムを詰めて被災地に向かった。デジタルカメラでそれらしい写真を要領よく撮るのではなくて、ぎこちなくても、不器用でも、写真として不出来でも良いから、時間をかけてもう一度ゼロから被災地に向き合おうと思った。岩手県の宮古から福島県のいわき市まで。住所も名前も聞いていない人は、写真を持って仮設住宅を訪ね歩いた。全員には会えなかったが、新しい出会いもあった。

自分のうちにある「分からなさ」と被災地で起きていることへの「分からなさ」。その疑問を直接ぶつけていくことで、それまで見えなかったもの、分からなかったものが少しづつ見えてきた。何かが見えたかと思うと、同時に見えないものも沢山生まれてきた。しかし、「分からなさ」を抱えながら、被災地に向き合うことへの不安は少しづつ薄らいでいった。

それから、色々な人に会うことを始めた。被災地の状況をニュースやデータなどの間接的な情報で分かった気になるのではなく、複雑に入り組んでしまった状況をそのまま受け入れようと思った。その為には、沢山の人に出会い、話を聞く必要があった。今回の写真は、その過程で出会った人と風景、そして、自分が大切だと思った言葉を展示している。一部、日本から原発が輸出され、原発建設に伴う立ち退きが行われるベトナム、タイアン村の人々の営みも展示している。

自分のうちに「分からなさ」を抱えたまま、写真を見る人に強く訴えかけることが出来るのか私には分からない。ただ、向き合うことさえやめなければ、いずれ何か、ぼやけて見えないものが見えてくるはずだ。そう信じて、今年も3.11の写真展を開催する。


小原 一真 (おばら・かずま)

フォトジャーナリスト。
1985年 岩手県盛岡市生まれ。宇都宮大学国際学部卒業。在学中は中米、アフリカ、東南アジアをまわり、写真展/ドキュメンタリー上映会を行う。

2009年より金融機関の営業職に従事しながら DAYS JAPAN フォトジャーナリスト学校を卒業。2011年3月、東日本大震災を期に退職し、フリーランスのフォトジャーナリストとして活動を開始。福島第一原発での取材はヨーロッパ各国にて報道される。


ウェブサイト http://kazumaobara.com/
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